’07.9.8

友人のチェンバリスト・寺村朋子さんの出演する「ドメニコ・スカルラッティ没後250年コンサート」を聴いてきました。チェンバロの他、ソプラノ/リコーダー/パーカッション/ヴィオラ・ダ・ガンバによる「すかるら亭」というユニークなユニットです。

今日は22日に東京・近江楽堂で行われるコンサートの「ショートプログラム」。ドメニコの作品の他、父・アレッサンドロ、師・ガスパリーニ、同僚・セイシャス等の作品も演奏され、楽しく聴くことが出来ました。今日の目玉は何と言っても「クリストフォリアクションによる初期イタリアンフォルテピアノ(2005年久保田彰氏制作)」!。チェンバロに比べ、フォルテピアノは「ピアノへの移行段階の楽器」とだけに思われがちで、演奏を聴けるチャンスが少ないです。今日の楽器は、白木の外観と柔らかな音色がとても素敵でした。

22日は、追加される曲目がある他、今日と同じ曲を今度はチェンバロで聴けるので、その聴き比べも楽しみです。

 

’07.9.2

9/16のリサイタルの通し練習、今日はホールを借り、衣装もつけての練習です。

私には、プロを志した頃からからずっと、「目指す演奏」「憧れの演奏」がありました。1つの曲、1回のコンサート毎にいつもそれを目指してやってきました。それはとても大切なことですが、「自分の持ち味は、それらの演奏とは全く違う・・」と、今やっと感じるようになりました。

歌手・声楽家の方なら、自分の声域や声質を早くから(それこそ10代のうちに)認識していると思います。もし可憐な娘役が歌いたくても、深いアルトの声を持っていたら、それは叶いません。自分に合う歌・役を注意深く選んでいくでしょう。教師も当然そうするはずです。下手をすると、本人の声の持ち味を潰しかねないからです。

でも器楽奏者の場合、歌手ほど慎重に曲を選んでいるでしょうか。自分のオリジナル曲を弾くならともかく、何となく好みだけで選んだり、周囲の無責任な意見や感想に振り回されたりしていないでしょうか。

特にクラシック音楽教育では、色々な時代の作曲家・作品を「まんべんなく」学ぶのを良しとします。特定の作品に絞ったり、ましてや自分のカラーを打ち出したりというのは、演奏歴をうんと積んだベテランだけに許されることと言われます。

私は中学から音楽科のある学校にいて、同級生の演奏を何度も聴いてきたのですが、中1から高3までの6年間で「器楽専攻生も、訓練で音色が磨かれ、音楽が豊かになっても、その人の持つ音色は声と同じように変わらない」と非常に強く感じていました。

声が生まれ持った声帯の形や顔の骨格で決まるように、器楽も生身の肉体を使う以上、その人の身体を通した音になります。楽器という媒体を挟む分、自分の音色を見極めるのは難しいかもしれません。

あるオペラ歌手の方が、「自分の声は神様からの贈り物。そのときが来たら、また神様にお返しする。」と仰っていました。私達器楽奏者も、自分の音色(選んだ楽器も含めて)をもっと大切にしたいと思います。

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